姫野カオルコ 角川文庫
言葉で構築されているのに、いつの間にか言葉で表現できないものを「見せてくれる」。
それが、良い小説だ。
近畿地方の小さな田舎町。
長命小学校のシーンからこの小説は幕を開ける。
5人の小学生の内面に入り込んだり、外から見てみたり。
その活発な動きは、読者を惑わせつつ、やがて一人の少女を浮かび上がらせていく。
隼子
小型の猛禽類の名を与えられた、鍵や細工箱や金庫を開けるのが好きな少女は、その名の通り、田舎の通学路を滑走路にして、この町から滑空する。
そして、「墜落」する。恋の奈落に。性の地獄に。
国民の多くが通ってきた(と勝手に思っている)青春(実際は実態はなく、過去を振り返る郷愁でしかないのだが)を、よみがえらせてくれる、その手並みは小気味よい。
さらに、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』が小道具に、
新撰組が、源氏物語が、与謝野晶子が、人物の背景に織り込まれている。
『北回帰線』が、この物語の伏線になっているのであれば、読まなければ。
ここからネタばれ。
小山内先生が亡くなるところで、物語が一気に飛躍する。その前まで終わってしまったら、
中学生と教師の恋愛という、よくある話になっていただろう。
だが、小山内先生の葬式に集うシーン、それはかつての小中学生が34歳という、
大人とも青年ともつかない年齢になったときのことなのだが、
そこで、この物語は一気に飛躍する。
その後の章で、この物語は、静けさとしか表現しようのない空間に入る。
それは、青春の情熱を調節できるようになったということか。それまでのせわしなく動く視点が、
多少、落ち着くのである。
これまで生きてきた年月を振り返れるようになってはじめてみえてくるもの。
それは、小中学生には到底想像がつかない。
34歳なんてまだまだひよっこ、と感じてしまうが、小学生の3倍近くになるのだ。
その間に、大恋愛をしたり、大失恋をしたり、
裏切られたり、絶望したり、忙しく人生は回っていく。
その、「時の流れ」、なるものを、実感させてしまうのである。これが、小説の働きというものだ。
技巧について。文体について。
主語を要しない日本語で主体と客観を頻繁にいれかえながら物語が進む。
登場人物=作者の意識のやや性急な流れに、読者もついていかなければならない。
忙しい小説である。
ジョイス『若い藝術家の肖像』
特に第1章の冒頭。おねしょをすると、最初はあったかくて、だんだん冷たくなる。お母さんが油紙をしいてくれる。それは、変なにおいがした。
この箇所、原文では、"He"で始まる文だった。意識の流れ、の語り口を想起させる小説だった。
だから読みにくいのかもしれない。ジョイスと同様に。
この小説の読みにくさは、登場人物の多さだけでなく、
登場人物と作者の意識に境界がないのが原因かもしれない。
仕掛けや謎を見落とさないよう注意して読まなければならない小説ではないが、
ぼーっと読んでいると、物語から振り落とされてしまう。
そして、いつの間にか、自分の来し方を振り返ってしまう、そんな小説なのである。
これからも、こころのどこかにひっかかっていそう。
そんな小説は、良い小説だと思う。
"Portrait"も、スティーブン・ディーラダラスが飛翔する物語であったが、「隼子」と不思議とリンクするではないか。
言葉で構築されているのに、いつの間にか言葉で表現できないものを「見せてくれる」。
それが、良い小説だ。
近畿地方の小さな田舎町。
長命小学校のシーンからこの小説は幕を開ける。
5人の小学生の内面に入り込んだり、外から見てみたり。
その活発な動きは、読者を惑わせつつ、やがて一人の少女を浮かび上がらせていく。
隼子
小型の猛禽類の名を与えられた、鍵や細工箱や金庫を開けるのが好きな少女は、その名の通り、田舎の通学路を滑走路にして、この町から滑空する。
そして、「墜落」する。恋の奈落に。性の地獄に。
国民の多くが通ってきた(と勝手に思っている)青春(実際は実態はなく、過去を振り返る郷愁でしかないのだが)を、よみがえらせてくれる、その手並みは小気味よい。
さらに、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』が小道具に、
新撰組が、源氏物語が、与謝野晶子が、人物の背景に織り込まれている。
『北回帰線』が、この物語の伏線になっているのであれば、読まなければ。
ここからネタばれ。
小山内先生が亡くなるところで、物語が一気に飛躍する。その前まで終わってしまったら、
中学生と教師の恋愛という、よくある話になっていただろう。
だが、小山内先生の葬式に集うシーン、それはかつての小中学生が34歳という、
大人とも青年ともつかない年齢になったときのことなのだが、
そこで、この物語は一気に飛躍する。
その後の章で、この物語は、静けさとしか表現しようのない空間に入る。
それは、青春の情熱を調節できるようになったということか。それまでのせわしなく動く視点が、
多少、落ち着くのである。
これまで生きてきた年月を振り返れるようになってはじめてみえてくるもの。
それは、小中学生には到底想像がつかない。
34歳なんてまだまだひよっこ、と感じてしまうが、小学生の3倍近くになるのだ。
その間に、大恋愛をしたり、大失恋をしたり、
裏切られたり、絶望したり、忙しく人生は回っていく。
その、「時の流れ」、なるものを、実感させてしまうのである。これが、小説の働きというものだ。
技巧について。文体について。
主語を要しない日本語で主体と客観を頻繁にいれかえながら物語が進む。
登場人物=作者の意識のやや性急な流れに、読者もついていかなければならない。
忙しい小説である。
ジョイス『若い藝術家の肖像』
特に第1章の冒頭。おねしょをすると、最初はあったかくて、だんだん冷たくなる。お母さんが油紙をしいてくれる。それは、変なにおいがした。
この箇所、原文では、"He"で始まる文だった。意識の流れ、の語り口を想起させる小説だった。
だから読みにくいのかもしれない。ジョイスと同様に。
この小説の読みにくさは、登場人物の多さだけでなく、
登場人物と作者の意識に境界がないのが原因かもしれない。
仕掛けや謎を見落とさないよう注意して読まなければならない小説ではないが、
ぼーっと読んでいると、物語から振り落とされてしまう。
そして、いつの間にか、自分の来し方を振り返ってしまう、そんな小説なのである。
これからも、こころのどこかにひっかかっていそう。
そんな小説は、良い小説だと思う。
"Portrait"も、スティーブン・ディーラダラスが飛翔する物語であったが、「隼子」と不思議とリンクするではないか。
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by joycemann
| 2013-03-17 21:33
| 書評・読書